八月号歌評下書き(2) 後藤瑞義
(同人誌「賀茂短歌」より)
後藤早苗
大雨で畑に行けず三日して行けば胡瓜がごろごろ取れる
これも、そのままの歌です。大雨がふって畑に三日間行けなかったようです。そして、
やっと雨がやんで行ってみたら胡瓜がたくさんなっていた。この歌のよさはやはり事実
をありのままに歌っているらしいことでしょう。そうしたなかから、雨と作物との関係とい
うか、作物にとって雨がいかに必要かといったことなども垣間見られるのです。それか
ら、なんといっても「ごろごろ」という言葉だと思います。これは、完全に作者独自の感性
からの言葉なのだと思います。「いっぱい」でもなく「たくさん」でもなく「ごろごろ取れる」
のです。ここにある種の感動をおぼえます。
藤井美智子
ひとり孫「おじいちゃんによろしく」と声も聞こえて便りに結ぶ
お孫さんが一人いらっしゃるのでしょう。それが、「ひとり孫」という言葉
となったのでしょう。「おじいちゃんによろしく」とカッコをつけてあると
ころをみますと、これは実際の話言葉だったのでしょう。「声も聞こえて」
の「も」がちょっと気になります。「声が聞こえて」ならすっと意味が通じ
るのですが、この「も」がなかなか難解です。最近思うのですが、歌はなる
べく単純平明、そのままがいいと思うのです。難解な歌は、その謎解きに読
者の精力が注がれて、とても余韻を楽しむまでに至らないうらみがありま
す。前に出ていました、大雨の胡瓜の歌にしても、その前の「充分に水分と
つてクーラーもつけてと指示し息は帰りゆく」にしても、なにも難解なとこ
ろがありません、ですから余韻を味わう余裕が出て来るのだと思うのです。
さて、この歌は、亡くなられたご主人のことを、たった一人しかいない、
かわいいお孫さんが、まだ生きているかのように「おじいちゃんによろし
く」と言ってくれた、それが無性にうれしかった、といったことでしょう
か。作者を知っておるわたしの解釈です。
この歌を、この歌のみを初めて読んだこととして解釈を試みます。「ひと
り孫」も「おじいちゃんによろしく」も「と声も聞こえて」も分ります。
「便りに結ぶ」が少し難解です。多分、作者は娘さんか息子さんかと電話を
しているとします。そして、じゃあ「切るね」と言われた。そのとき、ひと
り孫さんが、「おじいちゃんによろしく」と近くで叫んだ。これが、「声も
聞こえて」ということではないだろうか。そして、その言葉が電話の最後の
結びともなった…。余韻というか、作者の心をなごませるものとなった、と
いったことを想像します。
それにしましても、やはり「声も聞こえて」の「も」が気になります。
「声」のほかに何かがあって、「声も」でしょうか。また、「便りに結ぶ」
の便りは、普通は、というか、わたしなどは、手紙を連想するのですが。こ
の場合は、「声」がでてきますので、電話のようにおもうのです。そして、
最後の「便りに結ぶ」の「に」がよく分らないのです。「便りを結ぶ」と
「を」ならよくわかるのですが。
歌を分らせようとしない、分らせる努力をしないのは、逆に言えば、ただ
しく自分の気持を伝えようとしているともいえると思います。
この歌の難解さは、作者の複雑な心もちにあるかもしれません。作者の思
いの深さ、思いの多さに短歌が負けているのかもしれません。
鈴木きみ
人の子も日本の子供と言う母はしかる時こそだれかれ分けず
この歌は、内容的にはよいところを掴んでいると思います。お母さんの人となりが
浮かんできます。問題はやはり文法的なことになると思います。ひとつは、「人の
子も日本の子供と言う」の「言う」です。これは現代形ですから過去形にしなけれ
ばならないと思います。もっとも、過去の事を現在形で歌うこともありえますし、
この歌を思い出というより今、現在のこととして歌うことも、出来るでしょう。も
うひとつは、係り結びの「こそ」を使っている点です。こそを使った場合は已然形
で終るとなっています。「ず」の已然形は「ね」です、それとも「ざれ」です。文
語の文法のむずかしさがここにあります。解決作としましては、文法どおりにする
ことはもちろん第一ですが、ここだけ口語にする、「分けない」とする方法もある
でしょう。
表現は、なるべく平明で簡潔なほうがいいと思います。そのままを歌うことをお
すすめします。文法を注意して参考例をあげておきます。
参考1.人の子も日本の子供と言いし(過去の回想の助動詞)母叱る時にはだれか
れ分けず
参考2.人の子も日本の子供𠮟るときだれかれ区別せざりし(過去の回想の助動詞)
母は
参考3.人の子も日本の子供と言いし(過去の回想の助動詞)母叱る時にはだれかれ分
けず
土屋文恵
凛として真夏の畑に花咲かす蚊帳吊草の息吹たくまし
「凛として」というのは、もちろん「真夏の畑に花咲かす」蚊帳吊草の姿のことで
しょう。ここにも作者のある感性のようなものが働いていると思います。雑草で
あっても決しておろそかにはしないといった作者の姿勢が「凛として」というよう
な表現を得たのではないでしょうか。「真夏の畑に花咲かす」というのも、ひとつ
の風景が浮かびます。「息吹たくまし」は蚊帳吊草の雑草魂に感じ入っているので
しょう。
眼前の雑草を単に歌っているようにも思えますが、作者の心の中の思いのような
ものをあるいは歌っているかもしれません。こうあってほしい、こうありたいとい
うような思いが、凛として真夏の畑に咲く、たくましい蚊帳吊草に、ある理想的な
姿を思い浮かべているのかもしれません。